初めてご利用の方へ 企業登録のご案内 リンクについて お問い合わせ プライバシーポリシー サイトマップ
トップ >> エッセイ >>エッセイ - ヒマラヤに魅せられた青春期

エッセイ - ヒマラヤに魅せられた青春期

- 第3回 -

赤嶺 信夫(あかみね のぶお)
アジアネットワークボランティア 代表
JICA 青年海外協力隊OB

1990年 沖縄県立農業大学校園芸課程修了/果樹専攻
1990年 青年海外協力隊農業改良普及員として
      ネパールに赴任
1992年 沖縄協同青果蒲A入果実部
1994年 沖縄石油ガス株_場主任
1997年 サザントロピカルフルーツ開設・経営(恩納村)
      JICA農業研修生受け入れ
      JOCV青年海外協力隊補完研修生受け入れ
      JICA果樹専門家受け入れ
2006年 アジアンフードレストラン「ジャナカプール」経営

ネパール農業開発の困難さ

ネパール滞在が1年過ぎ、ようやく回りを見渡す事のゆとりが出てきた頃、民主化の影響は地方の村でも感じられる様になっていた。公共の場でも発言が出来、政府側と王制側との緊張の緩和が図られ、自由が民衆の手にゆだねられる時代になると思われた。ところが、独裁的な支配から脱却した国家は複数政党への民主化の道を歩み始めたのだが、開放された自由を、国策として国民へ明確に示すどころか、政府役人たちは個々の懐を肥やす事だけにむけられた。汚職である。

それが地方の行政にも悪用され、私が働いていた農業試験場支所にも問題が蓄積されていた。農業試験場のトップが政府予算(試験場の運営費)を横領し、農民への研修費、種子の買い付け、購買が出来ない状態が何度かあった。誰ひとり文句を言う職員はいなかった。局地へ飛ばされるのが非常に怖いのである。あの頃のわたしは、現状を知っても何も出来ない自分自身の力の無さに嘆き、どうすればと脱力感におそわれたことを覚えている。

民主化で少し笑顔がもどった村人たち

わたしが育成指導した「シンズリの柑橘」は国内有数の地域で栽培され、沖縄産のタンカンに似ていて、甘さと香りは他の品種にはない独特な味を持っている。栽培技術の確立、生産農家の意欲(意識改革)を中心に教えていたつもりが、歯車が合わない。いい物があるのにわかってくれない・・・。 目の前に原石が有りながら何も出来ない。時間がないのが辛かった。

シンズリ農家の女性たち

ただ仲間には恵まれていたのが救いだったかもしれない。試験場を解雇されたスタッフを雇い入れ、ひたすら働きつづけた。農家の眼色が変わっていくのがわかって、受け入れてくれたんだと、笑っていた記憶がある。

【左】赤嶺さん、【右】スタッフの皆さん

諦めたらそれで終わりになってしまう
前に進むことしか考えていなかった自分がいた

ヒラヤマへ向け550kmの地点がカトマンズ

販売経路を考えて、庭先から都会へ流通の仕組みを試みた。失敗は許されない。ミカンが売れなかったら沖縄へ帰るしかないと考えた。トラックの手配、燃料代や、各農家からの集荷したミカンの重量を計り、カトマンズへと出発した。550kmの距離を18時間かけてたどり着いた。

国道沿いに屋台を作り、道端で販売をした。1kg15ルピー(日本円で30円)でおよそ10トンの果実を売るのは無理にちがいない。

 1日目はせいぜい100kg位だった、焦りと後悔がよぎった。上手くはいかないよと同僚に言われ、考えが甘すぎるとお客に言われたのがショックだった。  村で待っている農家に売れなかったとは言えないし、真冬の夜空を見て涙した。 「限界だよ」と弱音を吐いたのも事実だった。

雪の中、トラックの横で石を積み、即席の暖炉を作った。皆で暖をとりながら氷点下の中にいてもミカンを買ってくれと、叫びたい気持ちは募るばかりだった・・・・。

国道沿いに立てた屋台

朝方、起きて見ると、トラックの前に行列が出来ていた。口コミで客が寄ってきたのである。驚きと、何ともいえない感激がこみ上げてきた。『嬉しかったですよ!』都会の人間には、新鮮なミカンが受けたかもしれない。インドから入ってくる果実は味も落ちる。容易に手に入るが時間が経過しているために鮮度がないのが救いだった。予想をはるかに越えた3日目には半分が売れた。5日目には完売した。農家と抱き合った事も今思えば懐かしい・・・。

帰国後16年にして村の柑橘生産組合は、ネパール国内で一番の評価を頂いたことを昨年、 現地で知った。笑声が絶えない仲間が増えたのも嬉しかった。

あの頃、諦めたらそれで終わりになってしまう。前に進むことしか考えていなかった自分がいた。 わたしは帰り際、しばらくこの国の景色を眺め「あのミカンはヒマラヤ山脈から透き通った風を浴びて、天然の甘さを持つ農家の宝になっている。」「また会いに行くよ」と笑顔で合図した。

18年の歳月が経つのに何も変わらない。子供達の無邪気な笑顔から内戦が終った事に気づいた。
10年の国内紛争で多くの人間が犠牲になり、子供も兵士に取られて戦いに命を落とした。これからも村の復興に少しでも協力支援が出来ればと思う・・・合掌。

掲載日:2008/4/12

このページのトップに戻る