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ティーダな出会い 第9回 - ユキヒロさん(前編)

 

ハートフルな音楽とトークが大好評
夢と笑いにあふれたユキヒロさんのステージ

 今回のインタビューは、ミュージシャンの「ユキヒロ」さん。かつて、「かでかるさとし」さんと一緒に、お笑いコンビ・ニーニーズとして大人気でした。
 代表作「今日から明日へ」「HEIWAの鐘」が高校の音楽の教科書に採用されるなど、活躍中のユキヒロさんに、ニーニーズの解散や東京での話から、現在の音楽活動、沖縄・浦添にかける思いをお聞きしました。前編・後編に分けてお届けします。

 

Q まずはお名前のことですが、仲里幸広さんから“ ユキヒロ ”さんになった理由は?

A (ユキヒロさん) 「 3年前からね、アーティスト名がカタカナのユキヒロになったんですよ。それまで本名でやってたんだけど、もっとみんなが覚えやすく、親しみやすくっていうことでユキヒロだけにして。そしたらね、おもしろいことに、子どもなんかも僕のことね、『ユキヒロー』って呼び捨てで呼んでくれるようになったの(笑)。カタカナにしたらさ、いろんな人から、『なんであんた選挙に出るの?』って(爆笑)。沖縄の人よ、いろんな考えするよ。ロゴもさ、英字にしようかなあ、と思ったけど 、お年寄りとか子どもとか、みんなが分かりやすいようにカタカナに」

 

Q 次は、東京での活動内容と、ニーニーズ解散についてお聞きしたいと思います

A 「ニーニーズで94年に東京に行った時には、司会や音楽ライブやったり、テレビのレポーターとかマルチタレント的なことをやって。若い頃はとにかく売れたい、有名になりたい(笑)。そのために、与えられたものは拒まず何でもやりたいってあるじゃないですか。そうやってどんどん仕事をやっていくなかで『何か違うんじゃないか』と、自分のなかで変化が起こってきたわけですよ。で、しっかりと自分が表現するものを持とうと。元々ニーニーズの時にもCDを出したり、オリジナルを書いてましたから。実際に音楽ライブでお客さんの反応も良かったんですよ。オリジナルも評判が良くて。お客さんに喜んでもらえて、『音楽やってもいいんだ』と少しずつ自信を深めていったんですね。

 多分ウチナーンチュはテレビのイメージで『なんでお笑いの人がいきなりミュージシャンなとーる(なっている)?』って思うはず。でも僕らは高校の時から『うぐいすバンド』っていうフォークバンドを組んでたから、音楽には興味もあったし。ニーニーズが解散する時も、お互いの方向性とかやりたいことをいろいろ話し合って、僕はミュージシャンとしてやっていこう、会場に来たお客さんに音楽やトークで喜んでもらおう、と決めたんです」

 「解散って言うと『いったー(お前達)なんで仲が悪いの』って言うかも知れんけど、僕の永遠のパートナー・かでかるさとし とは、もう高校からずっと一緒だのに、家族付き合いもやってるわけだし。
 人生ということを捉えた時に さとし はね、沖縄に帰ってライブもお芝居も司会もやりたいと。それは彼の持ち味でもあるし、正にマルチタレント。それをやりたいとなった時に、お互いの発展のために解散しようと。お互いに成長してニーニーズ大学を卒業したんです(笑)。そのうちおじいになったらタンメーズ(おじいさんズ)をやるかもしれない(爆笑)」

 
Q ソロミュージシャンとしてのスタートは、どうだったんですか?

A「知名度も実力もなにもない。ライブの宣伝をしてもお客さんが全然来ないんですよ。生活も苦しくて、たまに沖縄から救援物資のポークが送られて来るわけですよ。閉店間際のスーパー行くと、もやしが5円とか10円で売ってる。それでもやしチャンプルー作ってね、2週間ぐらい保つわけです。いろんなバイトもしましたよ、ライブでは言わないけど。ほら、夢を売る仕事だから(笑)。武田鉄也さんのお母さんが言ってたでしょ。キャベツばかりを食ってても肉を食ってる顔をして生きていけって。見栄じゃなくてね、そういう世界なんですよ。ステージに立つ人間は夢を与えなくちゃいけないってね。同情を買うようじゃダメ。」
 

 「僕の音楽の先輩は家の近くに住んでいた、元リンドバーグのドラムスのチェリーさん。日本武道館を3日間いっぱいにした大物ミュージシャンで、公私ともどもお世話になりまして。『ユキヒロ、何事も楽しんでいかなくちゃいけないよ』と、辛い時に励ましてくれてね。建築現場でのバイトとか『普段の生活も辛いと思わず楽しみなさい』と。」
 
 「僕は最初はね、ミュージシャンと名乗ることはいいのかなー、と思いました(笑)。だって、世界の凄いミュージシャンを見た時にね、あの人達と同じでいいのかなー、とか思うわけですよ。ちょっと小恥ずかしいって言うか(爆笑)。でも名乗った以上は責任があるんですよ。人に感動を与える歌を歌わなくちゃいけない。でも自分の良さは全部出した方がいいだろうと。だからね、東京のファンの人達は僕がお笑いやってたの知らないんです。『このミュージシャン面白いよね』って感覚なんですよ。沖縄の人は反対、『幸広、お笑いやってたのになんで音楽?』って。」
 

東京・六本木ライブハウス「EDGE」でのLIVEより

「メンバーは元リンドバーグのDrams:CHERRYさんを中心に 、
日本の第一線で活躍するミュージシャンがボクを強力にサポートしてくれました。 」

Vo:ユキヒロ  G: 岩本達雄  B:白船睦洋 D:CHERRY (元リンドバーグ) Key:ダーリン佐藤

 
 「最初僕のライブに来たお客さんは間違ってライブハウスに来たお客さんだったんです、僕のライブって知らないで。7時半スタートだったけど、2〜30分過ぎても客いないしね。やっと入ったお客さんに『うりひゃーっやったー!』と、座った瞬間に歌い出すわけですよ。
お客さんは『しまった』と帰るタイミングを見計らっているんだよ。『ぬがーらすか(逃がすか)、絶対に喜んでもらおう』とバーッて歌って、お客さんが帰ろうとするもんならね、出口をふさいででも歌おうと思ったよ(笑)。だってもう、ほかに聞いてくれる人いないんだもん(爆笑)。そういう思いで歌ったらね、やっぱり気持ちって伝わるんだね。このお客さん達2時間のライブに最後までつきあってくれたよ。うれしくて『よーし、またがんばろう』と思って一生懸命曲を作ったり、練習に取り組んだり、これの積み重ね。そうしたらね、段々お客さんが増えて来た。一回見た人がまた友達を連れて来てね、草の根的な広がりで。お客さんが増えてくるなかで、会場に音楽業界の人を招いたら、イベント会社からも仕事が来るようになった。それでバイトをパッと切って音楽一本で。」

 

 

Q 『今日から明日へ』と『HEIWAの鐘』が音楽の教科書に採用されたんですよね?

A 「『今日から明日へ』っていう歌をお客さんが覚えてくれるようになったんですよ。その中に学校の先生がいて、学校の合唱コンクールの自由曲で『今日から明日へ』を歌ったり。合唱部の大学生が学校で歌ったりとか。知らないうちにファンの人達が広げてくれてたんですよ。千葉県の中学校はね、僕の歌で優勝したのよ。そういう学校がいろいろ出てきて、ほかの合唱団が聞いて『自分達も歌いたい』という問合せが、日本で一番大きい音楽之友社っていう教育音楽の出版社にいっぱい来た。それで、小中高校の音楽の先生の教材に僕の曲が選ばれたんですよ。それが全国的に広まって、2004年度から高校2年生の音楽教科書に採用されたんですよ。そして今度は『HEIWAの鐘』が2005年度から高校3年生の音楽教科書に採用されたんです。それを見た時に、感無量っていうかね。親も大喜びでね。」

「コンドルは飛んで行く」等おなじみの名曲と共に、ユキヒロさんの「今日から明日へ」が採用・掲載されています。

 

インタビューの後編はこちら

 

★プロフィール

ユキヒロ
(ミュージシャン/シンガーソングライター)
10年間ニーニーズというユニットで活動後、2000年2月に解散、4月よりソロ活動をスタートさせる。5月15日に「沖縄の平和の心を世界に伝えたい」というメッセージが込められたソロ初のシングル「HEIWAの鐘」リリース。同年の九州・沖縄サミット会場でBGMとして放送される。
2001年6月ソロアルバムリリース、数曲がCMタイアップ曲として採用される。
2004年春、「今日から明日へ」が高校2年生の音楽教科書に採用される。
2005年「HEIWAの鐘」が高校3年生の音楽教科書に採用される。同年6月、活動拠点を沖縄に移し、全国を飛び回る精力的な活動を展開中。
ラジオ沖縄「ユキヒロの今日から明日へ」毎週日曜日 午後4時〜4時30分 放送中
URL http://www.yukihiro-okinawa.com/

 

掲載:2007/12/14

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