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エッセイ - ヒマラヤに魅せられた青春期

- 第1回 -

 

赤嶺 信夫 (あかみね のぶお)
浦添市国際交流協会会員

1990年 沖縄県立農業大学校園芸課程修了/果樹専攻
1990年 青年海外協力隊農業改良普及員として
      ネパールに赴任
1992年 沖縄協同青果蒲A入果実部
1994年 沖縄石油ガス株_場主任
1997年 サザントロピカルフルーツ開設・経営(恩納村)
      JICA農業研修生受け入れ
      JOCV青年海外協力隊補完研修生受け入れ
      JICA果樹専門家受け入れ
2006年 アジアンフードレストラン「ジャナカプール」経営


17年の歳月が過ぎ去っても記憶の中には消えない物(者)がある


 エッセイを久々に書くことになった。私は先月、浦添市国際交流協会主催のヒマラヤを越える子供達の映画上映会と講演会での講演を終えた後に「ビジネス・モールうらそえ」という「結の街」のHPを管理している(有)ジュンクの平良氏に声をかけて頂いた。その折に、「ネパールの想いを投稿して下さい」とお願いされた事がきっかけである。


 17年の歳月が過ぎ去っても記憶の中には消えない物(者)がある。あの少女は・・・
いろんな出会いがあったが、ネパール東部山間キムティ村から姉を頼って、首都カトマンズに上京してきたゴマ(当時18歳)を思い出した。格好から田舎育ちの娘である。農業改良普及員の仕事に従事していた私は、偶然に彼女の村を巡回する事があり、度々、訪れていたので村のことは話題に事欠かないほど知っていた。村は電気も水道も整備されてない、ネパールではどこにでもある村である。

 ゴマには大きな夢があった・・英語の先生になる事。貧乏な生活から、学校に行けなくて独学で英語を勉強していたゴマ、幼いころからのあきらめないと言う信念で、昼間はカトマンズの裕福な家でお手伝い、夜は夜間学校(英語)に通っていた。姉の家族(5人)と4畳半の部屋で間借りする事が、苦痛だった事も知っていた。インド国境近くに住んでいた私には、買出しの折にカトマンズに上京する事でゴマと再会する楽しみが増えていた。都会での生活に慣れない私には、ゴマをお手伝いというバイトのような感じで、雇用しながら面倒を見ていた。少ない賃金から貯金をしていた。ネパール料理が上手で、会話には支障はなかった。よく村の話しをしていたような記憶がある。・・

 もう1年が過ぎ、ドイツ人が経営するオフィスで就職が決まり、小さなアパートで暮らすようになっていた。月1,500ルピー(日本円で3,000円程)の給料で生活していたゴマには、300円の積み立てと、親への仕送りで手元にはほとんど残らなかった。沖縄に住んでいる学生(中学生ぐらい)のおこずかい位はあるでしょうか。しかし、携帯を使うと足りないくらいの金額なのかもしれない。日本とネパールの格差が見えてくる。

 私は、任期中に小学校の建設に取り組んだ。山間の村で、標高が2000mある、カンニャカルカという地区であった。電気も水道もなく、道路も整備されないままの村であり、農村での栽培は主に柑橘類を中心に農家数150戸ある。ネパール国内では優良の生産地域になる。しかし、学校完成を見ないまま、沖縄に帰国した。あれから8ヶ月たった後、再度ネパールへ行く事になった。学校が気になっていた。・・・

 8ヶ月後再びカトマンズを訪問した。
 お土産をいっぱい詰め込んだバックを片手にゴマの姉家族に会いに行った・・・。部屋に入った瞬間、目に映った遺影がゴマであるのがわかった。なんで?・・どうして?・・と涙が止まらなかった。私が沖縄に帰った後で、両親が居る村に帰ったあとに虫垂炎(盲腸)腹部に痛みを抑えきれなくなり、病院に搬送されたときには息をひきとっていた。姉さんは涙声で「あなたのおかげで、ゴマは短い人生を一生懸命生きて頑張ったって・・ほめてくれる唯一のお兄さんだった」と言ってくれました。

 わたしは、カトマンズでの住まい(アパート)を引き払うため、部屋の掃除と片付けをゴマにお願いした時のことを想い出した。雨季での巡回は危険を伴うため、カトマンズでの農業試験場を職場に代えて、5ヶ月間はアパート暮らしをしていたが、任期の2年を終了する前に帰国準備をやっていた。
 「日本に帰っても自分の建てた学校のことで又訪ねることになるだろう。その時はまた皆に会いに来るよ!」と話し、彼女には机とラジオを譲った。あの嬉しそうな笑顔を見るのが最後になるとは、当然、考えもしなかった。医療の乏しいこの国では・・環境の違いで、運命なんでしょうか?日本だったら助かっていたのに・・・悔しいです。

 今年の冬にネパールを再び訪問します。ヒマラヤの山を見ながら、「ゴマ帰ってきたよ」と声をかけたい・・・。


浦添市国際交流協会会員
赤嶺 信夫

 


カンニャカルカ地区の赤嶺スクールには、1年生から5年生まで60〜70名の子ども達が通っています。


《赤嶺氏・任地での活動内容》
ネパール東部ジャナカプール県で、果樹の栽培指導を行なった。 標高100m〜500mの南部では熱帯果樹(マンゴー、パパイヤ、パイナップル、レイシ)1000m〜1500mでは柑橘類、スイートオレンジを中心に、また2000m〜2500mではナシ、クリの落葉果樹、そしてリンゴを指導。 また、果実の販売から収益性の高い作物の導入、農民研修センター、小学校の建設、そして中学校の農業クラスの授業も受け持っていた。 専門は果樹だったが、村落開発の分野でも地域の発展のために貢献した。
現在でも、建設した小学校(学校名は「AKAMINE School」)の校長を務めており、2年に1度はネパールを訪問して小学校の様子を見ることにしている。

掲載:2007/8/4

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