1991年の春
ネパールの生活にも慣れ、やっと自分の生活に余裕が出来てきた頃、私は見渡す限り山間に囲まれた村シンズリの中心地に住んでいた。インド国境から北60kmに位置する農村である。
電気は通っているが、日常に停電する。ランプの灯りで夕ご飯を炊いていた。ガスは無く薪を使って料理をするのに、最低でも1時間はかかる。日本も、昔はこういう生活だったんだろうな、という気がした。
国際平和協力隊員の仲間たち
テレビはほとんど見たことがない。あまり苦にもならないし、ラジオさえあればいい感じであった。たまには沖縄を想い出す事があった。年老いた親父を置いて、異国の地に来た自分が正しかったのだろうかと自問する時も何度か
あった。ラジオから聞こえてくる日本の音楽を聴くと、つい歌っていた。
農業の指導で巡回するたびに、かならずネパール人のローカルスタッフを同行させ、現地の農家(生産者)のパイプ役に仕事をお願いしてもらい、助けてもらった事があった。
ヒマラヤを見下ろすミカン畑で、チャイ(茶)を飲みながら現地の仲間と将来の農業の行く末を話したことがあった。物を生産しても売る場所が限られている現状の中、問題点が多く、解決の糸口が見つからないままの日々を送っていた。
自分の限界を知った時、悔しさと力の無さに打ちひしがれ、誰にも打ち明けることが出来ないことへの辛さも噛みしめながらこのままでは、「自分は何しに来たのだろう?」と、自問自答を繰り返し、問題を解決できず、ふさぎ込む自分がいた。
晴れない気持ちで仕事に出かけ、ある村に到着した時のことだった。子ども達の笑い声と歌声が大きく聞こえてきた。・・・
物語りの始まりとは知らず・・「日本のおじさんが来た、来た」とはしゃぐ子ども達数人が近寄って来た。「おじさん学校を作りに来たんでしょ!」と何故か、子ども達がみんなで踊って喜んでいたのを覚えている。
実際は農家の状況を調査するために来ていたはず。しかし、あの子どもらの表情を見たら、誰だって嘘をついてしまうのかも知れない。私は、何かに突き動かされるように、いつの間にか村長に駆け合っていた。学校建設の有無を問い掛けていたのである。
村長(手前中央右)や村人と共に
「作って欲しい」と言われたときには、返事は出来なかった。「怖くて逃げる方が良かったのかも知れない」と思う程、農業の指導で来た私にとっては、とても荷の重い話だったのである。
「これは時間が必要だ!」と焦った事をよく覚えている。冷静に考えると建設資金、労働力、土地の提供者との話し合い、いろんな課題が有る。責任重大で問題山積、だが、なんとかしてあげたいという気持ちで困り果ててしまった。しかし、私はこの土地への愛着と、貧しさの中でも、親切に面倒を見てくれた村人の為、そして子供達への恩返しを心に決めていた。
「自然体でやる事が一番です。苦痛と思ったら前に行かないよ!」って、ネパール人の友人に言われました。「なんくるないさ〜」「沖縄も同じだし、そのままでやるしかないね〜!」と腹を決め、学校建設のプロジェクトに乗り出してしまった。
学校建設予定地
現地での人間を採用して、学校建設が始まった。設計から見積りまでの作成、資材の調達、現場監督までやりました。初めての経験だから、無我夢中、失敗の連続が何度かあったが、1年の歳月でようやく完成に辿りついた。
残念だが、その時には、私はもう沖縄の地にいた。2年の任期を終えて完成間際に帰国しなければならなかったからである。
新校舎の屋根越しに山々を望む
現地では加工された板が手に入らないため、黒板も貴重品だった
後に村長からのお礼の手紙で知った。その報告の中で、「学校名を『アカミネスクール』にしました。」と書いてあった。又、「校長は赤嶺さんにお願いすることにしました。」と。
校長先生を私に任命したのである。子供達の意見が圧倒的に多く村長も同意したのこと。これは大変だと・・。
学校の運営も農家の生産(販売の10%売上)を予算に出資するのも村の議会で決定して、予算の範囲内で運営していくと手紙に書かれていた。
電気も水道も道路も無い、小さな村に少しばかりの明るい灯りが見えた。嬉しかった。
「みんなにありがとう・・・」
浦添市国際交流協会会員
赤嶺信夫
|