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企業特集 第19回 – 沖縄テント業界の歴史を造る、信念の実業家
砂辺松福テント(株) 取締役会長
砂辺松福さん
S18年7月14日生まれ
沖縄テント業界の歴史を造る
信念の実業家
「成ろうと云う想いが強ければ強い程 成りたい者に成れる」
これが砂辺松福さんの口癖ともいえる座右の銘。
「ああなりたい、こうしたいと口で言うのは誰にでもできます。しかし本当にその目的に近づくには、執念に近い努力を続けなくてはならない。思いが強ければ強いほど、成功する確率はあがるとぼくは信じています」と穏やかに語る砂辺さん。
県内のまつりやイベントに欠かすことができない大型テントを一手に引き受ける業界のトップ企業「砂辺松福テント」。会長 砂辺松福さんの熱い生き方に迫ります。
いつか一国一城の主になる!
久米島出身。農家の両親のもと、8人兄弟の上から6番目。
中学を卒業後、集団就職で那覇の印刷屋に就職。初任給8ドルのうち、小遣いに1ドル取っただけで残りは全部親へ送った孝行息子でした。
「両親は読谷から久米島にわたった小作農だった。子沢山でとても貧しかった。収入が少なくてしょんぼりしている親父の背中を見るたびに、早く大人になって親を助けたいと子供心に思っていました。そして、人に使われるのはいやだ、小さくてもいいから一国一城の主になるんだと、思ったのです」
印刷屋に勤める砂辺少年は、朝早くから夜遅くまで必死に働きました。しかし、インクを洗う薬剤が合わず体調を崩してしまいます。久しぶりに那覇に出てきて息子に会ったお父さんは、やせ細ったその姿に驚いて島に連れて帰りました。
1年半養生した後、再び職を求めて那覇に。行商、ヨーグルト配達などいろいろな仕事を経験し、兄たちがしていたテントの仕事を手伝うようになります。
テントとの出会い
「長男と次男、そして姉の婿さんである山里さんの仕事でした。砂辺と山里の名前から「砂山工作所」。店舗はひめゆり通りにありました。
米軍払い下げの野戦用テントをバラして加工して売るのが当時のテント屋の仕事です。商店の軒先の小さな巻き上げ式の日除けを作ったり、シートをやんばるの農家に売りに行きました。米を干すシートに使っていたのです。香港でも売れました。船上生活の船の屋根に使われたのです。
野戦用テントは水に強く丈夫でしたが、解体作業は大変で、油で防水されていたので手も服もベトベトになりました。
まもなく姉たちが解体作業を手伝うようになり、ぼくは営業専門にまわります。ホンダのスーパーカブという50CCのバイクに乗って、中頭からやんばるまで。二人乗りで、2間(3.6メートル)とか3間のテントを担いでいくのです。日除けテントを取り付けるパイプが5,6本ずつ付いているからすごく重い。小さなバイクは途中でエンジンが焼け切れそうになりましたが、なだめながらガソリンが切れるまで走り回りました。
名護、辺野古はよく行きました。当時辺野古は賑やかだったのです。雑貨店や飲み屋が軒を連ねていました。日除けの注文を取って回ったのです。
23歳で結婚。それをきっかけに兄たちから独立し、那覇市与儀に自分の店を構えました」
数ヶ月 毎日通って、注文を勝ち取る
「店舗の近くに与儀市場があった。家内が買い物に行っては、日除けいりませんかと営業をしていました。ぼくはミシンを踏んで日除けを作り、取り付けに行ったのです。まだテント屋がそんなになかったので、けっこう忙しい日々でした。その頃にはもう払い下げのテントではなく、日本製の合成繊維を使っていました。
幌をトラックに取り付ける仕事も新しく始めました。当時は1tトラックに幌で屋根を付け、工事現場への人員輸送に使っていました。
注文を待つのに飽き足らなくなり、沖縄マツダへ営業をかけました。といっても知り合いがいるわけではないので、毎朝営業マンが出社する時間に行って、トラックの幌を作らせて欲しいと直接頼んだのです。直談判ですね。
数ヶ月毎日通い続けるうちに課長さんが『そんなに頼むなら1台作らせてみよう』と言ってくれた。ありがたかったです。マツダ・プロシードの1t車ピックアップトラックに幌を作る仕事でした。本当にうれしかった。今でいうと、1億円の契約が成立したくらいの喜びがありました」
仕事への情熱がよくわかるエピソードです。その後、沖縄マツダとの仕事は続いて月80台受注という月があるほどに。従業員も雇い入れるようになります。
24時間仕事、仕事、仕事
「市場は車や人の出入りが多いので、日除けの取り付け作業は早朝にしかできません。朝の6時ごろ出かけていって取付けしました。会社に戻り、幌や日除けを縫製したり、パイプの熔接作業。その間にも営業にも出かける。仕事が終わるのが毎日夜10時~11時です。
いつもはパイプの熔接を昼にするのですが、時間が取れず夜に持ち越した日がありました。残業で溶接をしていると、夜は暗くてよく見えず、気付かないうちに目を火傷してしまっていた。翌朝、目が痛くて全然開かない。医者に行くと、火傷だから冷やしなさいと。治るまで数日目を開けられないでいました。
仕事一途でした。24時間仕事のこと、テントのことばかり。
配達途中できれいなテントを見かけたら、どうやって作ってるんだろうと考えた。国道で古い幌を付けたトラックを見たら、追いかけて会社名を控えました。翌日その会社に営業に行くのです。仕事が終わってからもまだ仕事をしていた。それが成功する唯一の方法だという信念があったので、迷いはなかった」
高度成長の波に乗る
72年の本土復帰で、沖縄も高度成長期を迎えます。
復帰で道路が右側通行から左側通行に変わった「730」、73年若夏国体、75年国際海洋博覧会、87年海邦国体。大きなイベントのたびに、砂辺さんは波をつかまえ、事業を発展させてきました。
「730の標識は7月30日以前から設置してあった。そして30日までカバーが掛けられていた。そのカバーの仕事を取ることができたのです。実は本土の企業がすでに契約していました。沖縄でもこのくらいの仕事はできると、行政に掛け合い、最初の企業にパテント料を払って仕事を得ました。
作ったのは離島から本島全域の標識に掛けるカバー24万枚!沖縄の海を思わせるブルーの生地に、「文字や矢印」を印刷した。従業員を14,5人雇い、他にもアルバイト40人くらい頼みました。設備投資もした。裁断機を新しく入れ、ミシンも買い換えた。毎日全員が夜の10時まで仕事をしましたね」
復帰で本土企業が沖縄に入ってきたのも、テントの売り上げを大きく押し上げました。
「大型工事に本土のゼネコンが入ってきました。すると大々的に行われる起工式、地鎮祭、落成式のための大型のテントの需要が高まってきたのです。それまで沖縄の建築会社のほとんどが大きな起工式はしませんでしたから。
大型テントの製作は九州の工場に注文しました。
そのころからテントのリースだけではなく、テントを会場に搬入し組み立て、必要なイスやテーブルを並べて会場設営。終わったら全部撤去するという、イベント全体のトータルな仕事をするようになりました。
そういう大きな仕事もしながら、個人商店の日除けや、トラックの幌の製作も続けていました。」
「砂辺松福テント」設立
仕事の拡大にともない広い場所が必要となって、73年那覇から浦添の現在の場所に移転。そのとき建っていた木造住宅2棟をそのまま使い、工場は二階に置きました。
そして再び兄たちと一緒に仕事をすることになります。「砂辺テント」設立です。
「73年の若夏国体にあわせて学校に次々体育館が作られていました。その備品であるイスやらフロアーシートの販売を始めました。注文を取り自分で作っていた。営業所が具志川、大謝名、ひめゆり橋、名護などにできます。1年ほどたったころ、ぼくは砂辺テントを独立します。
そして74年、「砂辺松福テント」を一からスタートさせました」
ここからが「砂辺松福テント」創立でした。
「1975年の沖縄国際海洋博覧会ではアクアポリス等のパビリオンでテントが必要でした。当時、仕事が急激に増え、会社が成長する節目だったと覚えています。」(31~32才の頃)
87年の海邦国体も、大きなビジネスチャンスとなります。
「87年の海邦国体では10市町村のテントを設営しました。イスやテーブル、湯沸し、お茶など必要なものをリースし、会場設営全般をしました。アルバイトをかなり雇い入れましたね。海邦国体歓迎というアーチの看板もこのときから。皇太子殿下が来られるというので、貴賓席用のイス(ネコ足の高級品)も用意しました。
借りていたここの土地を買ったのもこの頃です。いつかはビルを建てたい、そう思っていましたね」
そうして現在、那覇ハーリー、那覇まつり、産業まつりという沖縄三大祭というわれるイベントをはじめ、県内の大きなイベントのほとんどの会場設営を受け持つトップ企業に成長。
「沖縄にある最も大きいテントは、うちのアルプステントです。テントは今も自社製作です。でもミシンで縫うのではなく、電気で溶着をしているのです。
テントも進化しています。ベルデマンというテントは、天井に装飾を施してシャンデリアをつけると、ホテルの宴会場と変わらないパーティー会場になります。テントだとわからない人もいるかもしれませんね。又、先日のJC大会の懇親会では、パワーキングテントを使いました。3000人、4000人の大きなパーティー会場は沖縄にはないので、テントが必要なのです。
沖縄戦慰霊祭に、摩文仁の丘で使うのもパワーキングテントです。中に5000脚イスを並べます。」
43年テント一筋。
いかなる困難な場面でも、仕事への情熱や熱意が薄れたとか、迷ったという言葉は砂辺さんからは一言も聞かれません。淡々とした静かな、でもきっぱりと内側からの信念の伺える言葉が続きます。
「仕事は最初から思い込みの執念と情熱でやってきましたね。希望を持ち続けていました。会社を作りたい、自社ビルを作りたいなどですが、目標があるからそこに向って進んでいける。目標を達成することへの執念と情熱と、そして体力を維持することができるのです。
ぼくの子供の頃は人に言えないくらい貧しかった。周囲に馬鹿にされて悔しかったし、お金のある人が羨ましかった。そのハングリーな精神状態は経験した人にしかわからないと思います。しかし、そのような深い谷底を見たので、高いところに行きたいという思いが人一倍強いのかもしれません。」
43年間テントの仕事を通して得られたものは、人生の大きな力であり宝だと砂辺さんは言います。
「43年間仕事をしてきた。そこには一朝一夕ではできない、長い年月がかかってこそ築き上げることができる信用があります。これこそ貴重な財産ですね。信用され、周りの人とつながってきた。本当に大事な財産です。
社長業を息子に引き継ぎましたが、今も未だ、がむしゃらな気持ちはあるし、仕事に手を抜いているつもりはありません。でも次世代の息子たちが頑張っているので、任せようと思います。
人生にゴールはない。生きている間はずっと情熱と信念を持って、追求し続けたい。10階建ての自社ビルだって、必ず建てるつもりです。若さの秘訣ですかね、この情熱はずっと持ち続けていたいです」
<砂辺松福さん>
久米島生まれ。66歳。中学卒業後、仕事を始める。23歳でテントの仕事を始め、以後一筋にテント業。
趣味はゴルフ。ハンディー6。
子供は3男1女、そして孫10人。
学びに遅きは無し
学びたかったが、貧しくて生活・仕事を優先させて来た。でも、人生学びに遅きは無いと、61歳で念願の高等教育にチャレンジ!
平成20年に泊高等学校を63歳で見事卒業!これからも生涯学び続けます。
思い出に残る仕事
「これまでに思い出に残る仕事として首里城復元工事に、我社のテントが活躍した事です。首里城は復元工事中、我社のテントに全体が覆われ雨露をしのぎ宮大工の職人さんによって作られていったのです。また1993年の第44回全国植樹祭等も大きな行事でした。」 |
砂辺松福テント(株)の主な仕事
市町村の新年祝賀会の会場設営。県警や消防出初式。プロ野球のキャンプは阪神、韓国の球団、ヤクルト、楽天。ダイキンオーキッド、日本プロゴルフ選手権大会などゴルフイベント。那覇ハーリー。海神祭り。浦添てだこまつり。那覇まつり。産業まつり。那覇マラソン。
テントや備品のレンタルだけではなく、会場設営から装飾まで手がけ、イベント終了後の撤去も完璧に行う。それが主催者に喜ばれ、事業を伸ばすことができた。
☆ビジネスモールうらそえに期待 「今まで当社のPRは電話帳「ハローページ」を利用していました。それを「ビジネスモールうらそえ」を通してインターネットというメディアで展開できるのは画期的だと考えます。 PRというのは、会社の製品やサービスを伝えることです。次々新しい展開をしていっても、印刷物だと一度出したら次の発行まで変更がきかない。それがインターネットを利用すると、新しい情報を随時発信できるわけです。また不特定多数の方たちに見てもらえます。相乗効果で、私たちもさらに発展できます。 いろいろな意味で、ビジネスモールうらそえには、今後も大いに期待しています。」 |
砂辺松福テント(株) 本社
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