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秋の夜長にTweetしました 下地 節於(浦添市 企画部長) ビジネス・モール うらそえ 開設満8周年記念特別企画『投稿エッセイ』「大好きな沖縄へのメッセージ」
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下地 節於 (しもじ せつお)
1959年宮古島市下地字上地出身 |
全国で初めての試みとして「子ども・まち・地域・環境」を主なキーワードに、身近な情報の共有化を図り「安心」と「活性化」による地域・社会貢献を目指した循環型社会のコミュニティーサイト「ビジネス・モールうらそえ」が満8年を迎える。
これまでサイトを通じて積み重ねてきた繋がりと信頼を新たな推進力として、地域に根差した情報発信拠点として地域と共に歩んで頂きたい。
島嶼県の小さな情報も共有し繋げることで有益な情報となり、発信することで離島の地理的不利益性を優位性に変えて克服することが可能になることを気づかせてくれた。
それはITにより世界が身近になったことを実感させてくれるが、世界各地の紛争を掌のスマホで見るとき、世界の心の距離が縮まっていない現実を感じる。
そんな中、ビジネス・モールうらそえの取り組みが、まずは一番身近なコミュニティーサイトとなり、世界の心の距離を縮めるにはどうしたら良いのか。そんなことを思いながら秋の夜長にTweetしてみた。
今、思うこと
今年の夏も暑かった。街路樹のホルトの木や庭先の黒木にしがみついたセミは、いつもように朝に夕に力の限り全身で泣き暑い夏に拍車をかける。
そんな暑い夏の最中には、台風や豪雨による土砂災害が発生し多くの犠牲者がでた。自然の猛威を前にした時の人間の無力さ非力さは基より、自然と共生しながら生きることの難しさを改めて実感する。
その一方では「人を殺してみたかった」と言い、友人の命を奪った事件や、今だ動機ははっきりしないが見知らぬ子どもを連れ去り尊い命を切り刻む悲惨な事件が起こった。
自然災害や事件から逃れる方法は基より、何よりもこうした事件・事故から救える命はなかったのか。私たちは今一度冷静に振り、これらを対岸の火事として捉えるのではなく、身近な問題として捕らえ、微力にせよ何か出来ることはないのかなど、地域や家庭で話し合う事も必要ではないか。季節の移り変わりを感じさせてくれる朝夕の心地よい風が、バイクのハンドルを握る日焼けした腕を包み込む時ふと思ったりする。
「つながる」前に「人に寄り添う」そんな社会を
地域や家庭で話し合うきっかけとして考えてみたい。ゆいレールでもそうであるが、出張の時など、電車に乗るとスマホを片手に小さな画面を覗き込み、忙しく指先を動かす若い世代を目にする。一人で乗り込んできた時などは特に違和感無く受け止められるが、友人同士で乗り込んできた時でさえ、会話の無いまま指先を動かす光景を見ていると、違和感というより不思議な感覚を覚える。
世代間の“ズレ”と言われればそれまでだか、肩が触れ合うほど混雑した車中にあってさえ、指先を画面から離すことは無いあの光景には、やはりこの社会には何か欠けているのではないか。そんな思いがよぎる。
一方、そんな光景は職場にあってさえ日常的に目にする。
今や団塊の世代が定年となり、職場の年齢構成も大きく変わった。以前、仕事は「習う前に慣れろ」と言われてきたが、そんな環境にあってさえ、解らないことや問題が発生したときなどには、先ずは隣の同僚や先輩に相談してきた。
強面の先輩も後輩から教えを頼まれれば、我が事のようにいろいろ調べてきて一緒に議論し解決策を指南してくれた。そこにあるのは、「つながる関係」より「寄り添う関係」であり、仕事のできる人とできない人の関係でもなく、先輩と後輩の間にある一種の温もりのあるほのぼのとした空間であったように思う。
しかし、今やパソコンは基よりスマホをはじめ、それらをつなげる様々なツールにより居ながらにして壁の向こう側を通り越し、地球の裏側まで瞬時につながり、言葉や写真の交換が可能になるなど、国境を通り越え世界の隅々までつながることが可能となった。
そうしたつながりの便利さを享受する一方で、私たちは人として、何か大切なものを失いそのことに気付かないまま、新しい何か便利なモノを求めてきているのではないのか。
「便利」の対義語は「不便」であるが、この頃の不便とは一体何なのか、不便をどう定義したらいいのか。考えてみることも必要ではないだろうか。
技術革新と共に物理的不便さは解消され便利を享受することができた。それにも関わらず、私たちはさらなる便利を追求する。それこそ人間は欲望の連続で生きているからだと思う。だからこそ「便利に」「より便利に」「さらに便利に」を追求してきたのかも知れない。その結果が今の社会を作り上げてきたことを事実として受け止め、受け入れてこそ、次なる社会のあり方を考えることが出来るものと思う。
物理的便利さは享受できてきたが、その両輪関係にある経済的豊かさと、精神的ゆとりを私たちは等しく享受できる社会となっているのか。振り返り検証してみることも必要なことではないのか。
人生・生活(life)には「if」があるが、歴史(history)に「if」は無い。だからこそ、私たちが自分自身の人生の中で、新しい社会の歴史を作り上げて行くとき、歴史には「if」の無い事をしっかりと認識した上で、日々の生活を営んで行かなければならないものと思う。
そして、その身近な取り組みこそは「つながる社会」からまずは「人に寄り添う社会」のあり方を日々の生活の中に実践していくことではないのか。
今や、スマホ一つで顔を見ること無く、息づかいを感じることも無く世界中の「人とつながる」ことは可能になったが、私たちが生きていく上で大切なすぐ隣の「人に寄り添う」ことは難しくなってきているように感じる。
「隗より始めよ」とは言わないまでも、一番身近にいるすぐ隣の「人」の存在と価値を認め合うことのできるそんな寄り添う社会がつながりを持ったとき、ifのある人生が意味のある価値を持って世界中の人々とつながり、ifの無い歴史が新しい歴史となっていくのではないのか、と思ったりする。
すぐ隣の顔見知りの友と友に、まずは「おはよう」のあいさつで寄り添ってみませんか。
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