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うちな~アイデンティティ 宮城 勇(有限会社 イッセイ住宅 営業部課長) ビジネス・モール うらそえ 開設満8周年記念特別企画『投稿エッセイ』「大好きな沖縄へのメッセージ」
宮城 勇 (みやぎ いさむ)
1958年久米島生まれ。那覇高校・琉球大学保健学科卒業。結婚後しばらく浦添に在住し、現在読谷在住。 |
今回、「ビジネス・モールうらそえ」の満8周年を迎えるにあたり、同サイトの発足趣旨に改めて賛同し微力ながら、記念テーマ「大好きな沖縄へのメッセージ」にエッセイを寄稿したい。
最近、「沖縄に元気がない!」と時々耳にする。「確かに・」と思う。ただ本土の地方都市に比較して、こと経済活性指数でいえば高く元気があるので、別の見方をすると本来のウチナーパワーが発揮されていないと言えるのかも。”沖縄が元気に見えない”理由は、間違いなく若者を中心とした”ウチナーンチュの本土化”のような気がする。検証してみたい。
その昔、植木等は「サラリーマンは気楽な稼業だね!」と唄った。
高度経済成長期、どの会社も右肩上がりに業績が伸びていた。イイ会社、大きな会社に入り出世コースに乗れば、後は”年功序列”と”終身雇用”が機能し、定年を迎える頃にはマイホームのローンもほとんど完済、高額の退職金と豊かな公的年金、企業年金でバラ色の老後が保障されていた。まさにエリートサラリーマンは高度経済成長の申し子だった。
ただそのような状況下は悪しき副産物も生み出していった。時に家族を犠牲にして会社の為に馬車馬のようにモーレツに働くことを美徳とする精神構造になっていく。”年功序列””終身雇用”と並ぶ三本柱の”愛社精神”で生活のすべて、生き甲斐まで仕事が中心になる。さらに個人の能力より上司へのヨイショやゴマすりに長けた者が出世していくようになる。バブル崩壊で不動産長者の泡が弾け、ITバブルも花火の如く宙に消え、今やサラリーマンが歪んだ社会の格好のターゲットとなった。政府の税金、年金政策・・叫びが聞こえてくる。「サラリーマンは苦痛な稼業だ!!」
実はサラリーマンの悲痛な叫びも”本土”もしくは”本土企業”でのことで、こと”沖縄”に関してはあまり当てはまらない。なぜかと言うと、元々沖縄には大きな会社は少なく、イイ会社の基準もない。縁故関係や知人が社員の軸となる中小、零細企業がほとんどで、企業文化というよりここでも相互扶助、ヨコ社会である。経営者以外は肩書きが何であれ横一線だ。人事権もなければ、方針もほとんど経営者が決める。本土におけるサラリーマンは、ややもすると前述したヨイショやゴマすりでタテ社会を上りつめようと躍起になるが、沖縄ではそのようなことは起こらない。
ウチナーンチュは昔から相互扶助の精神で親兄弟、親戚縁故関係、さらには地域で助け合いコミュニティを作り生活してきた。このことは沖縄がもともと地理的に中国など大陸文化の影響を受け、さらにはその後の繰り返しの侵略や戦争など、世界でも特異な歴史を経てきたことが背景にある。お互いが助け合わないといけない環境が競争よりも協調を優先させることとなった。沖縄が横社会と言われる所以だろう。
一般的に言われることだが、ウチナーンチュは出世欲がなく会社でモーレツに働くこともない。理由のひとつにまずあげられるのは仕事以外の付き合いが多いこと。これは友達や親戚門中を大切にする社会背景から、いろんな形の模合や地域のエイサー、友人の結婚披露宴余興練習等々。まあ地元の会社であれば早退理由になるのも珍しいことではないが-。もし本土系会社で課長に昇進の話がきたら謹んで辞退する、というのもあながち笑い話に終わらないかも。
ウチナーンチュのウチナーンチュたらしめるのに〈テーゲー主義〉と〈ナンクル精神〉がある。テーゲーとは〈大概〉〈ほどほど〉とかで表現されるがこの言葉のもつニュアンスはヤマトンチュが一番理解に苦しむところだろう。もともと沖縄の言語文化は話し言葉で、書き言葉では理解しにくい側面がある。テーゲーも会話の状況で意味がぜんぜん違うものになる。
①「あの人の仕事っぷりはどう?」「しにテーゲーえっさー!」 *悪い評価
②「今日は残業せんといかんなー」「あい、テーゲーでいいよー!」*普通
③「この絵、どう?」「はっしぇ、テーゲー上等やっさー!」 *良い評価
ナンクルは〈なんくるないさ〉で、文字通り〈何とかなるさ〉でウチナーンチュのクヨクヨしない大らかな性格を表現したもの。ただこの言葉は最近、何もしないでいい結果を期待する、という意味に捉えられる場合が多々ある。この言葉には、”まくとぅそーけー”が省略されており、正しくは、”人として誠実に生き、懸命に努力をすれば、後は何とかなる。きっと上手くいく。という想いが込められている。いわば”人事を尽くして天命を待つ ”。
ヤマトンチュが沖縄に転勤してきて1、2年は概して〈ウチナータイム〉に違和感を覚える。ウチナータイムは近年マイナスな側面、沖縄経済の諸悪の根源とみる向きがある。それはそれとして否定できない面もあるのだが、ウチナーンチュからこれを取ったらクリープを入れないネスカフェのようで物足りない味になってしまう。重要な気質だ。ここに一つ例えを挙げよう。
平成15年8月10日那覇に都市モノレールが開業した。昨年10周年を迎え乗客も当初予想を上回っているようで、市民の足、観光客の移動手段としてまずは定着したと言えよう。ところで、これももう9年前になるJR西日本尼崎列車脱線事故、今でも悲惨な光景が思い起こされる。二度と事故が起きないことを願うと共に、改めて犠牲者の冥福を祈りたい。事故の直接原因は運転士のスピード超過だが、会社の安全管理体制は社会の厳しい批判を浴びた。公共交通機関としての社会的責任から当然だ。ただ背景に一会社の問題だけでは片付けられない現代日本の都市機能が生み出す病的な深層心理が見え隠れする。世界一とまで評される日本の電車定時運行の正確さは、時に安全面で諸刃の剣になる。路線の競合、都市機能の集中による朝夕のダイヤは過密化する一方、定時運行の強烈なプレッシャーを受ける現場は、ややもすると最も重視すべき安全を置き去りにする。他方、ホームで時計を見ながら電車を待つ乗客。息を止めていられる程の時間の遅れにも不満を抱く。それは1分30秒を取り戻そうとした運転士の心理と表裏一体かもしれない。
さて、南の島のゆいレール、利用する側をウチナーンチュに設定してみよう。
[開業前]
「なあ、今度モノレール走るだろ。あれどんなーかなぁ」
「だっからよー、あれ内地みたいに決まった時間に走るんだろ」
「当たいめーだろ。やーぬー言っちょうが」
「だったらわん、あれに乗らん!」
「は~、何で?」
「考えてみ~。いつも時間通り来るっていったら気持ち悪くないか。ちょっと遅れるくらいがちょうどいいさや~」
「であるなぁ、やーの言う通りやっさー」
[JR事故後]
「えー、見たか?電車の事故」
「いー、でーじやぁ」
「聞いたか。1分30秒遅れたからってよー」
「だっからよー、考えられんなぁ」
「わったー、ウチナ~ンチュでよかったなぁ」
「だっからよー!」
巷にこういう会話があったかどうか定かではないが、ゆいレールさん、ぜひ時間の正確さより安全を優先して欲しい。我々利用する側も心の中はのんびりといきたいもの。”遅れること”そのものより”遅れることを許せる心”。日常生活で、車のブレーキ、ハンドルでいえば、”あそび”の役割を担うのがウチナータイムだ。
一年中温暖な気候は雪国などのように、今働いておかないと・・という、切羽詰った精神構造になりにくい。これは特に男性に多くみられる傾向である(相対的に見るから沖縄の女性は働き者と言われる)。今日やれることは今日やろう、ではなく、今日やれることも明日やろう、ということになる。今も残る嫡子(長男)制度、相互扶助の社会も一因で、いざという時周りが助けてくれるから、と(最近は何ともならないのが増えているけど)。客観的にみると、県民所得はぶっちぎり全国ワースト、失業率、離婚率も間違いなくワースト。普通悲壮感が漂うはずなのにそれはない。そんな状態でも陽気さ(能天気と言ったほうがいいいか)を失わないのは立派!
この不可思議なアンバランスさも又沖縄の魅力になっているかもしれない。最近定年前に沖縄に旅行で来て、気候や自然もさることながら、こういった人間的な要素に触れ、早期退職移住してくるヤマトンチュが増えている。高度成長期から脇目もふらず働き尽くめで、それこそ勤続疲労なる状態の人にはどこか失いかけた人間本来の姿を取り戻してくれる、うってつけのところかもしれない。
〈テーゲー主義〉〈ナンクル精神〉に〈ウチナータイム〉。これらに代表されるウチナーアイデンティティの追求がもしかしたら本来の沖縄、ウチナーンチュの元気を取り戻す近道かも・・。
最後に、避けては通れない基地問題に触れたい。もしかしたらこれが一番”ウチナーンチュの元気のなさ”として見られる根源かも知れない。繊細なテーマなので一つの側面として捉えていただきたい。
正直なところ長期に渡る普天間問題のメディアの報道で、県外・国外移設、さらには基地の全面撤去というのが”県民の総意”という一くくりの表現には多少の違和感を覚える。もちろん対外的な表現だろうけど、これだけの複雑な問題故、総論では賛同するが各論では異を唱えるという県民もいるだろうし、それが自由に意思表示できない風潮は真の問題解決を阻むことに繋がるのではと危惧する。沖縄でも基地被害を被る側、基地経済の恩恵を受ける側、自然保護の観点で見る側と立場の違いもあり、どの意見も絶対的正義はなく、批判や反対意見の対象となりうるし、政治的要素の混迷に巻き込まれたくない心情も働く。
時流に逆らうような意見は、話題そのものに触れてはいけないタブーと同じで”沈黙という意思表示”になって封じ込められているのではなかろうか。問題を避けるのではなく、又有識者、政界、メディアだけに任せるのではなく市民レベルで少数意見、賛成・反対意見が自由に示され、活発に議論してこそ解決策に導かれるはずだ。
確かに沖縄の基地負担軽減は長年の県民の悲願だ。それこそ限りなく“総意”だろう。同じ土俵に危険性除去と新たな基地建設、そして自然保護―。普天間問題という絡んだ糸は強く引っ張られるほど解けにくくなった。今こそ安全保障の在り方を国民が論議し、国益の受益と負担の歪んだ構図を修正して、国民一人一人に普天間の置かれた状況を自分のこととして捉えてもらう必要がある。その先頭に立つ重要な役割を持つ沖縄県民は今一度自ら考えるべきだろう。単なる賛成反対の構図ではなく、ウチナーンチュのアイデンティティとして。何はともあれ、世界の中の日本、日本の中の沖縄として、ウチナーンチュの意識改革、言動が基地問題解決の鍵を握っている・・・と私は思う。
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