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沖縄に生まれて良かった 新里 仁美(有限会社 てだこ) ビジネス・モール うらそえ 開設満8周年記念特別企画『投稿エッセイ』「大好きな沖縄へのメッセージ」

新里 仁美 (しんざと ひとみ)
(有限会社 てだこ 営業部課長)

プロフィール
1958年宮古島市生まれ
生後8ヶ月ポリオ発症(右下肢マヒ)
宮古高校卒業。卒業後東芝姫路工場へ就職。姫路から川崎へ転勤。転勤先の川崎で結婚。
横浜市泉区に10年間住み、その後沖縄に帰省。
横浜在住時は、縫製会社・保険外交員・NTTコールセンター等の職に就き
沖縄に戻ってからは、印刷会社にて制作業務に従事。現在(有)てだこでIT業務をメインに営業部課長として取りまとめています。
趣味は、沖釣り、料理、手作り(オリジナル唐辛子・アロエ化粧水等々、興味のあるものは何でも。。。)性格は明るい方ですが負けず嫌い。娘達は母親であるが父親でもあると言っている。現在沖縄市在住。
URL:http://yuinomachi.jp/?p=548

「ビジネスモールうらそえ」の開設満8年をおめでとうございます。
記念テーマ「大好きな沖縄へのメッセージ」にエッセイ寄稿させて頂きますことに感謝致します。

「大好きな沖縄へのメッセージ」という事ですが、まず私の生い立ちからお話しましょう。
昭和33年9月生まれ、宮古島の小さな部落で幼少時代を過ごしました。当時は、ポリオのワクチンという情報もなく、生後8ヶ月に小児マヒにかかり右足下肢マヒというハンディを背負うことになりましたが、祖父母が親代わりになって、目の中に入れても痛くないという程、大切に育ててもらいました。宮古島の自然の中、右足のハンディを気にすることも無く、友達と野生児のごとく木登り・海水浴・畑や野原を駆け回り年中傷だらけで、いつも祖母をヒヤヒヤさせ、あまりのオテンバ振りに痛~いお灸をすえられるということもしばしばでした。

宮古島、西平安名崎の手前に見える集落(狩俣)。

 

そんな中、中学校1年の夏休みに長年待ち望んでいた、那覇市寄宮にある沖縄整肢療護園のベッドが空いたという連絡を受け急遽入園することになり、同級生との別れもそこそこに宮古島を離れました。

療護園に隣接する養護学校へ通いながら、リハビリ・手術と卒業までの3年間、右足の手術を3回ほど受けましたが、中学卒業を前にこれ以上治る見込みがない、人並みに高校に行きたいという思いから、担当医を説得して宮古高校を受験、再び祖父の待つ宮古島へ帰ることになりました。
遠く離れた母から仕送りされる学費が足りない部分を奨学金とアルバイトでなんとかやりくりしていましたが、小遣いも殆どないため、夏の制服は手作り、弁当は朝早くから祖父の弁当と2人分を作って朝7時の市内行きバスに飛び乗るという生活でした。
沖縄整肢療護園入院中に最愛の祖母が癌で他界したため、祖父と叔父との3人暮らしで、掃除・洗濯・食事の世話等、高校に通いながらの主婦業ともいえる家事をこなすのは大変なことでした。又、部落では新里家本家ということもあって、盆・正月以外にも多くの親戚が度々集まることがあるため、仏事をこなさなければなりませんでした。

宮古島の故郷(狩俣)

そんな生活を3年間続け、高校卒業を期にハンディを持つ私には宮古島での就職先も無く、県外へ就職旅たちました。約18年沖縄を離れる中で結婚、3人の子供に恵まれ、子育てに奮闘しながら寿司職人の主人と将来は自分たちの店を持つことを夢見て横浜の地で生活していました。

しかし、バブル崩壊と供に私達家族の生活が一変しました。信頼していた人達にだまされ、任されていた店が銀行に差し押さえされてしまい、借金を背負うことになったのです。なんとか立ち直ろうとパート内職と頑張っているところに悪いことは続きます、主人が重い病気にかかり入院すると同時期に自分自身も病気になってしまい、入院治療か手術かの選択をせまられてしまいました。
収入も途絶えてしまっていた私達家族は市役所のお世話になっていたため、もし、私が入院ということになれば、子供達を施設に入れないといけないという現実を突きつけられ、3人の子供達の事を考えると、どうしたら良いのか悩み・行き場の無い苦しさで涙が止まりませんでした。

近くに誰も頼れる人もなく、どうにもならない諦めの気持ちで沖縄本島に住む叔母に相談しました。
その時、叔母が
「沖縄に帰っておいで~ 子供達の事は心配いらないから皆で面倒見るから大丈夫だよ!」
「なんで~一人で悩んでいないで早く相談すればいいのに」
その言葉に
「あ~ 私には帰れるところがあったんだ~ 迎えてくれる人達がいたんだ」
沖縄に帰ればなんとかなると思い、すぐに沖縄に子供達を連れて帰ることを決心しました。

御先祖からのプレゼントだったのでしょうか?

市役所の方の協力もあって、平成6年12月25日クリスマスの日に沖縄の地に帰って来る事ができました。叔母・従兄弟と親戚の協力で、浦添の地で新しい生活をスタートすることができ、心配していた自分自身の病気も薬と通院治療ができるということで、子供達に淋しい思いをさせる心配もなくなり安心しました。又、叔父・叔母・従兄弟達が子供達を早く沖縄になじませようと毎週のようにアチコチに遊びに連れ出し、横浜では味会うことのなかった親戚の温かさに触れ、沖縄での新しい生活の中で子供達は部活を通じて友達を沢山つくり、親の心配をそっちのけで早々と沖縄になじんでいきました。

沖縄に帰ってきた安心感からか私の病気も順調に回復し、3ヶ月後には仕事が出来るようになり、新しい仕事・新しい環境に慣れるため子供達の部活の応援や役員活動を積極的に行いました。

子供達を連れて宮古島に帰省したとき、当時90歳になる祖父は私達家族が沖縄に帰ってきたことを理解できなかったようですが、18年間誰よりも大切に育てた孫の私に会えたことが嬉しかったようでした。そんな祖父も私が帰ってくるのを待っていたかのように、翌年夏に私の手を握り静かに旅立っていきました。祖父を見送りながら、これからの人生祖父が必ず見守ってくれると信じ、沖縄に帰って来て良かったと強く実感しました。

そうです、先祖を大切にする沖縄だからこそ親戚・家族の絆も強い、そういう環境で子供たちを育てられることは最高だと実感しました。学生の時に大変だった仏事もやっていて良かったと思うようになりました。

先祖が引き合わせてくれた出会いは、沖縄での新しい生活のスタートから始まっていました。その始まりは今現在勤務している職場「有限会社てだこ」からです。
叔母が見つけてくれたアパートをてだこで仲介してもらいました。次に引っ越したアパートは、てだこが管理する物件で、3年ほどお世話になりました。

その管理物件を、親戚の叔母の経営する店で紹介してもらったのが、偶然にも「てだこの社長さんだよ」「社長の両親も昔宮古島に住んでいて、あなた達は遠い親戚関係になるはずよ」と偶然の出会いに驚き、当時自宅でパソコンの仕事をしていた私は名刺交換させてもらいました。
その時の出会い、名刺交換がきっかけで短期アルバイトとして雇用され、後にコンピューター担当として有限会社てだこの社員の一員として働くことになり、今年で11年目になります。
まさに、先祖が引き会わせてくれたのかもしれません。

現在の職場(有限会社 てだこ)

 

私達家族が沖縄に帰ってきて、21年が経ちました。その年月の中で主人との別れがあり、一人子育てに奮闘する私を助けてくれたのは親戚でした。又、宮古島の同級生に励まされて元気をもらいました。沖縄に帰ることを拒んでいた長男も真っ先に沖縄の嫁を見つけて結婚、長女・次女とも沖縄の婿を見つけて結婚、2人の娘は嫁ぎ先の仏壇を預ることになりました。親子ですね!

私は娘達に「あなた達は、旦那様の先祖に選ばれたんだよ」「大変だけどしっかり守っていきなさい」「そうすることで、きっと先祖が家族皆を見守ってくれるよ」と伝えています。

その娘達も子宝に恵まれて、今年9月には7人目の孫が誕生しました。
又、昨年10月には息子と2世帯住宅を建てることができました。新しい家には子供・孫達が何かにつけて集合します。笑顔いっぱいの孫達と一緒にいると、あの21年前の悪夢はなんだったんだろうと思うことがあります。あれは夢だったかも?
あの時、沖縄に帰ってくる事がなければ今の私達家族はどうなっていたんだろうと。。。

「人生苦しいことばかりではない、頑張って一生懸命生きていけば必ず幸せがやってくる」
昔、祖父に教えてもらった言葉で、

「ふまれても根強くしのべ 道芝の やがて花咲く春もくるらん」
どんな困難にも耐えしのんで頑張っていれば、いつか必ず良いことがやってくるよ

大好きなお爺ちゃんと私

ハンディを持つ私が卑屈にならないように、いつも心穏やかに育ててくれた祖父母に感謝します。
我が家のリビングには、祖父が書いた、この書が飾られています。
いつも思うのは沖縄に生まれて良かった。沖縄に帰って来て良かったと実感しています。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

 

ビジネス・モール うらそえ 開設満8周年記念特別企画『投稿エッセイ』「大好きな沖縄へのメッセージ」

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