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ありがとうを伝えながら母に寄り添いたい 下地 安広(浦添市教育委員会) ビジネス・モール うらそえ 開設満10周年記念特別企画『投稿エッセイ』「“ありがとう”と伝えたい」
下地 安広 (しもじ やすひろ)
1957年11月 沖縄県石垣市生まれ |
ビジネス・モールうらそえの開設10周年おめでとうございます。このたびの特別企画『“ありがとう”と伝えたい』に賛同し、投稿させていただきます。
今年は酉年、私も還暦を迎えるため”ありがとう“と伝えたい方々は多くいる。しかし、今、真っ先に”ありがとう“と伝えたいのは、私を産んでくれた母へ、あらためて”ありがとう“と伝えたい。
私の母は83歳を迎えようとしているが、二年ほど前から「癌」と闘っている。母の癌治療は、入院による放射線治療二回、子宮摘出手術一回を既に済ませているが、未だ癌細胞が幾つかあり、今後も入院と退院を繰り返す事が推測できる状況にある。
昨年の暮れ、母が「はぁ~もう・・また年明けすぐに入院ね~、最初に2カ月も入院して放射線治療して治ると思ったら駄目、手術して悪いもの取ったから大丈夫と思ったら、次は首のところに癌が出て、首の癌を治療したと思ったら、また、体の真ん中に癌があるって、癌は怖いね~ もう~ 癌の治療は仕事に行くと思って行くさぁ~ そうでも思わないとやっていられないさぁ~。」であった。母なりの前向きトークである。
母は30代後半から70歳近くまで那覇市内の某ホテルでルームキーパー係長として仕事を任せられ、雨の日も、風の日も、台風の日も子供の為、生活の為と云って、ほぼ毎日仕事に行っていた。「仕事は大変だけど、働いたぶん給料がもらえる。これで私たち家族は人並みの生活ができる。働けるのは有り難い」が母のいつもの口ぐせであった。母は何よりも仕事優先で、仕事は頑張って来たとの自負があるからだ。
我が下地家では10年少し前に「癌」に係る大きな出来事があった。父が癌で亡くなった事である。母が仕事を辞めたのは父に癌が発見され余命わずかとの宣告を受けた数日後であった。父の闘病は約4カ月と短かったため、母は父が亡くなって約2ヵ年は夫の病気に気付かなかった自分に呆れだいぶ落ち込んでいた。それを時と母の姉妹や元職場同僚の気遣いなどで乗り越え、近年は夫婦で築いた家の掃除、子供3人と孫の成長などを喜びとしつつ、地域の老人会での集まりを楽しみに暮らしていた。
そうした中、突然、母の身体に発見された癌と治療の始まりである。今、母は過去のトラウマを乗り越え「この年齢まで生きられたら死ぬのは怖くない、自分の旦那のところに行くのだから怖くない。」と云う。一方で「病気であっちこっちが痛くなるのはイヤさぁ~ね~ だから治せる病気であれば治療して100歳まで生きて孫の結婚やひ孫も見たいさぁ~」と前向きなのである。既に姉の子供の結婚やひ孫は見ているが、私と妹の子供たちのことだと察している。
母は私のグチを妹に時々こぼすらしい、長男である私が亡くなった夫より頼りにならないからのようだ。正直、母を溺愛していた父と比較されても母への気遣いは父の足元にも及ぶはずもない。母は父との想い出をときどき語る。「私を母親として人として成長させてくれたのは、自分の親よりもお父さん(夫)だよ、とても感謝している。生きている時にもっと二人で旅行とかお父さんのこといろいろしてあげればよかった等々」である。近頃、母は夫への想いがさらに増している様子である。
また、母は私が幼い頃の話を時折する。私たち家族は石垣島に住んでいた事。私が原因不明の病気で1年以上も通院したが病状は改善せず、ある日に命を落としかけた事。医者の勧めもあって私の病気治療のため石垣島の財産を処分して那覇市内に住まいを移した事。その為、私たち家族は、慣れない那覇市内でゼロからの生活基盤づくりと先の見えない病気治療と子育てに父と母は無我夢中に働いた事などである。
これ以上、下地家の歴史に触れないが、幼い私の命を救うため、父と母が全てを犠牲にして頑張ったおかげで今の私がいる。私は年を重ねる毎に母と父の無二の愛を幾重にも感じている。時折、自分が写った鏡の姿に父が見えたりするし、私の考え方・性格・しぐさ等に父や母を感じることが多々あるからだ。
今、母は病と前向きに闘っている。母の今を大切にしたいから、母に色々な“ありがとう”をいっぱい伝えながら出来るだけ母に寄り添いたい。
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